江戸末期~明治初期
LATE 19TH CENTURY

THE BIRTH OF SATSUMA KIRIKO
薩摩切子の誕生

薩摩藩におけるガラスの製造は1846年島津家27代島津斉興の代に始まります。
江戸から当時硝子師として著名であった四本亀次郎をお招きし、中村製薬館の近くに硝子製造竈を設け、化学薬品の薬瓶などを製造しました。
そして1851年、28代島津斉彬が藩主になると飛躍的な発展を遂げることとなり、海外の交易も視野に入れた美術工芸品「薩摩切子」が誕生しました。

THE SHUSEIKAN PROJECT
集成館のガラス製造

鹿児島城内花園の製煉所において着色ガラスの研究がなされ、紅・藍・紫・緑等の発色に成功しました。
中でも、日本で初めて発色に成功した紅色は「薩摩の紅ガラス」として当時全国各地で称賛されたと言われます。
1855年には磯(後の集成館)にも硝子方を設け、藩営の工場には最盛期百人を超える職人が働いていたともいわれています。

THE END OF SATSUMA KIRIKO
薩摩切子の終焉

藩主就任から僅か7年後の1858年、斉彬が急逝します。
その後事業は縮小、さらには1863年の薩英戦争で工場は焼失して大打撃を受けました。
その後、ガラス製造の再開や明治初期までガラス工場が存続していたと考えられる記述も残されていますが、明治10年(1877年)の西南戦争前後に薩摩切子の製造は途絶えたと思われます。

昭和60年~現在
1984~PRESENT DAY

RESTORATION SATSUMA KIRIKO
薩摩切子の復元

薩摩切子の終焉から百年が過ぎ、薩摩切子は有識者やガラス・美術関係者の間では知られていたものの、一般的には浸透していませんでした。
1982年、鹿児島の百貨店で開催された展覧会がきっかけとなり、薩摩切子復元の機運が高まってきました。
そして1985年4月、薩摩ガラス工芸株式会社(現在は株式会社島津興業に統合)を設立、薩摩切子の復元事業が始まりました。
復元に向けての研究や工場の建設を経て、1986年3月より工場を稼働、本格的な製造を開始しました。

HURDLES OVERCOME
復元へのハードル

尚古集成館に収蔵されている薩摩切子をはじめ、一部の薩摩切子は作品を実測する機会に恵まれ、現物を拝見することができました。しかし、多くの作品は限られた写真を基に復元することを余儀なくされました。
様々な調査記録を参考にその特徴や使用工具の形状などを推察し、試作を繰り返しました。
本来の作品が持つ美しさを表現するために、工具を修正することもしばしばでした。

REDISCOVERING COLOURED GLASS
色ガラスの復元

復元は往時の作品が残されている紅、藍、緑、紫の製造から始まりました。
江戸時代発色が困難とされた紅は最大の難問で、発色を安定させ、納得のいく色になるまでさらに数年の歳月がかかりました。
さらに、製造の記述があるものの往時の現物が確認されていなかった金赤を1988年、黄を1989年に発表しました。

CREATING A NEW TRADITION
新たなる伝統の創造

復元事業が進むにつれ、次第に新たに企画された薩摩切子の製造も進んでいきます。
往時の薩摩切子の美しさを踏襲しつつ、現代のライフスタイルに向けたデザインや、徐冷の技術が低かった時代には出来なかった大物の製作にも着手します。
2001年には二色の複雑なグラデーション「二色衣(にしきえ)」を発表。
2015年にはモノトーンの世界観による島津薩摩切子の新機軸「思無邪(しむじゃ)」を発表しました。